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NO WAR
KUZU (2003-04-18 00:13:00)
僕は個別的自衛権のことを、「集団的」と冠してしまいました。いろいろ調べて見ました。
ただ、やはり残念ながら、「現状の対処療法」でしか物事を捉えられない、根本的問題への対応をおざなりにしたお話には、賛同できません。
僕や他の方々が反戦を唱えると言うことは、実力(武力)以外の方法で、危機を回避できないのか、多くの罪無き人民を殺め無いよう、当局はそれこそ「血が噴き出すような」苦労をしているのか、ということを言いたいのです。
友人が暴漢に襲われないで済む方法を、罪無き日本国民が落命することなく、外交努力その他で取れないのか?ということです。決して、現実を見ていないわけではありません。
今は、どうもその「友人」が暴漢と化した感が有ります。結局我が国は、国連憲章で認められている集団的自衛権を行使する代わりに、武力行使支持を表明したのでしょう。「友人」はあの9月11日に「攻撃」されましたが、友人は別の友人(中東です)を後ろ盾に、或いは黙認し、別の国を実力で分解し、攻撃してきた経緯と事実がありますね。大国が暴漢となった場合、集団的自衛権を行使して実力で大国を攻撃する事は、最終戦争となり得るため、事実上大国には当てはまらないようです。
片方で多くの人間を殺めている「友人」が、攻撃された。確かに、テロは犯罪で、非道で残虐です、絶対に合ってはならないのです。でも、我が国はその友人が行ってきた「事実」を、ただ黙認していただけです。現代のテロの根源が、過去の事実にあるのです。その根本対策を、我が国は、血の滲むような外交努力で解決に努めましたか?
近隣諸国条項については、有る意味「偏向思想を無くす」という意図が含まれているとすれば、多少自虐的で強引かも知れませんが、有る意味国外からの見方も伺える、他国に例を見ないユニークな見方とも思えます。仮にそれを撤廃した後、どういう見方が残るのでしょう?「客観的な」「科学的根拠に根付いた」「偏向のない」歴史観が得られるのなら、別に構わないとは思います。「一方からの押しつけ」にならないよう、祈るばかりです。ただ、撤廃論者の側から見たその理由が、単に「自虐的」「国民の尊厳を失う」といった、やや情緒的で偏向気味の論調が目に付きましたが。
国際援助は、我が国は沢山してきましたね。勿論近隣諸国にもしてきました。でも、本当に困っている人民や場所に、物資や人的資源を、本当に確実に届けることが出来たのですか?有る意味、多くの国へのODAに見るように、援助金額だけを見た、自己満足の域を出ていないのではありませんか?教育では例え反日感情を煽られても、他国民が直接我が国の人間に接する事こそが、本当の我々の心を判って貰える事ではないですか?
仮にお金だけを、向こうの国に渡して、そのお金の恩恵が彼の国の人民の末端に届かない場合、逆に例えば「結局日本は首領様とグルだったのか...」で終わって、却って反日感情を煽ることにはなりませんか?
積極的に「攻撃」と、随分簡単に言われるのですね。現状の日本国憲法はともかく、国際法でも禁じられている武力行使なのに、その「攻撃」しか手は無いのですか?有事法案、どういう適用が想定されるか、考えたことはありますか?
日本抜きで(中米朝)北朝鮮の核問題が話し合われることになりました。友人の実力のお陰で、北朝鮮の態度が軟化し、少しだけ脅威が弱まったのは有り難いことですが、皮肉なことです。友人にしっぽを振って応えた我が国は、お隣の韓国共々、国の存亡を左右し得る大事なテーブルに、付けないのですね。

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