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国内ミュージシャン
P
PIZZICATO FIVE
-スタジオ盤-
-その他-
解説
1984年、小西康陽、高浪慶太郎、鴨宮諒、佐々木麻美子の4人をオリジナルメンバーとして結成。本来はドラマーが加わる予定だったが、諸事情により4名でのスタートとなった。ユニット名はその名残である。
1985年、テイチクに所属し細野晴臣プロデュースのシングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でメジャーデビュー。その後、CBS・ソニーへ移籍するがレーベル側がライブが出来るボーカルを欲していたなどの事情により、佐々木と鴨宮が脱退。二代目ボーカルにオリジナル・ラヴとの並行活動を条件に加入した田島貴男を迎えて3枚のアルバムを発表するが、完成度とは反比例して売れなかった。
そして、日本コロムビアに移籍。オリジナル・ラヴとしての活動に専念することになった田島に代わり、元ポータブル・ロックの野宮真貴を新ボーカルに迎えて怒涛のリリースラッシュを行う。そして、カネボウ化粧品「REVUE」シリーズ春のキャンペーンソングに起用された「スウィート・ソウル・レビュー」がスマッシュヒットを記録。小山田圭吾を共同プロデューサーに迎えたアルバム『ボサ・ノヴァ 2001』がオリコン・ウィークリー・チャート最高7位を獲得。さらにはフジテレビの狂気…もとい、子供向け番組『ウゴウゴルーガ2号』のOPテーマ曲に「東京は夜の七時」が起用されて知名度を上げる。これでようやく一流アーティストの仲間入りを果たした。
この頃に海外での活動も始め、同時に高浪が脱退。ついには野宮と小西のコンビとなった。そして、海外ではブレイクして知名度は日本よりも海外の方が高いアーティストの一人としてカウントされていった。1996年には*********(readymade) records,tokyoを立ち上げ、その地位を確実なものにした。だが、「『さ・え・ら ジャポン』の出来が、ゲストの力を借りる形で今までになくすばらしい出来上がりで、解散するなら(最高の状態の)今かな」(小西談)と思った両者は解散を発表。朝日新聞など全国紙の文化面でも報じられるほどの衝撃を与えた。
2001年3月31日、ゆかりある大勢のゲストを迎え、通称「お葬式」ライブと呼ばれるラストライブを慣行。惜しまれながらもピチカート・ファイブは永い眠りについた。
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コメント・評価
Recent 20 Comments
1. Ray-I ★★★ (2013-05-05 11:47:47)
渋谷系というか90年代における日本のポップスを語る上ではずせないのがこのアーティスト。
今でも多大な影響力を誇っており、あのヒャダインらも彼らを愛鳥していましたからね。
メンバーだった小西さんのアレンジ能力は今聴いても色あせないですし、
なによりも明らかにその人だとわかってもネタ切れ感を全く感じないところがすごい。
この才能が日本にあったことを誇りに思える。そんなユニットでした。
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